「どこからがセクハラなの?」と論じることの不快

連日たくさんのセクハラがニュースになっていますが、当然「最近セクハラが増えている」ということではありません。セクハラは昔から多く行われているが、「それは許される行為ではない、また許される行為ではないと声を上げるべきなのだ」と気づく人が多くなってきたからです。

 

「気づく」と書きましたが、これまでの多くの被害者は「セクハラなんて当然」という社会の風潮に無意識のうちに従わされ、自分が悪いのだと責めたり、泣き寝入りするしかなかったことも多いのでしょう。一人でも多くの被害者が自分を大切にしていいのだという気持ちを取り戻すことを願ってやみません。

 

「セクハラのボーダーラインは?」という不毛で不快な議論

 

「どこまでなら大丈夫でどこからがセクハラとされるのか」という議論が時々起こるのですが、とても不愉快です。

一つの理由は、こういった議論は、セクハラの表面的な言動の是非について問うだけの薄っぺらな議論にすぎないからです。仮に「ここまでならOK範囲で、ここから先はセクハラですよ」という話になったとしたら、OK範囲のセクハラをするのでしょうか? そこにセクハラ対象となる人を尊重する気持ちはあるのか疑問です。

 

「セクハラ」とはいったい何なのでしょうか。仮に、セクハラの対象となる「胸」や「お尻」を(性的な部分でない)「下腹」に置き換えたとしたって、身近でもない人に「下腹さわっていい?」としつこく言われたり、勝手に下腹をさわられたりすることは、非常に不愉快で気持ち悪いことです。ましてやもっとプライベートな性的な部分です。相手がどんな思いをするか想像を巡らせてみれば、してはいけないことであるのは当然なのに、なんでこんなことをする人がいて、そして、このすさまじい人権侵害がなぜ今まで放置されてきたのか。(この時代においてやっと自分もそういった疑問を持つことができるようになったのですが)本当に不思議なことです。

 

セクハラをする人間は支配者である

 

「相手が傷つくことを、相手の気持ちを考えずに言ったりやったりしてもいい」。こんな考え方が今の世の中で間違っているということは子どもでもわかります。しかし、「セクハラ」というカテゴリにおいては、それが例外になっている。根底には歴然とした男女差別感覚があります。

 

興味深い記事があります。

「男が痴漢になる理由」(精神保健福祉士 斉藤章佳氏のインタビュー)

https://www.huffingtonpost.jp/2017/10/18/sexual-molester_a_23248308/

 

過半数の痴漢は、性欲を抑えきれないために行為に走るのではなく、犯罪の理由が「ストレス解消」や「支配欲」であるというのが、数々の痴漢犯罪者に接してきた斎藤氏の分析結果です。

性衝動を抑えきれない果ての犯罪も罪深いものですが、「仕事をがんばったから痴漢をしてもいい」というのはどういう感覚なのでしょうか。

 

人が抑圧やストレスの捌け口に選ぶのは決まって、自分より弱く、支配が可能な(と認識している)人間です。男性上司から女性部下へのセクハラが圧倒的に多いというのも同じ理由なのではないでしょうか。

 

そして、多くの痴漢犯罪やセクハラが社会で見過ごされてきたいうことは、やはり、「女性は男性の下」という差別感が社会そのものに蔓延していたからでしょう。

 

セクハラ以外にも性別役割、社会進出など男女差別の問題は山積しています。「男女差別撤廃」は、女性強権や女性上位の実現を目指すというような女性本位な主張ではありません。性別を理由に傷つけられたり不利益を被るのは勘弁、一人の人間として、健やかに希望を持って生きていきたいという当たり前の人生の実現を願っているにすぎません。

 

セクハラの深刻さがピンとこない人は、相手を「男」「女」という観点で見るのではなく、自分と同じ人間だという観点で見て考え、行動してほしいものです。相手が対等の存在であり、自分と同じ人権を持っていると認識し、誠意を持って接していれば、セクハラだと言われるようなことにはならないはず。これが実践できれば「セクハラのボーダーラインは?」などという馬鹿げた疑問は持たないのではないでしょうか。

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